※この記事は、3000文字チャレンジという企画参加用のものです。ほかの通常の記事とは全く異なり、以下、だらだらとした文章が延々と続きます。ご承知おきください。
今日は雪が降るかなぁなんて、窓の外を見ながらそわそわしてたのなんて、いくつくらいまでだったろう。
幼稚園時代なんてもう、楽しみでしかたなかったな。小学校の時もなかなか。中学もまあまあ。
高校の頃だってなんだかんだ言っても、まだまだ雪は楽しみだった。
長い長い学生時代が終わって働き出したら急激に興味を失って、結婚して子どもが生まれた。
で、子どもに言われる。
ねぇ、今日雪は降るかなぁ?積もるかなぁ?
どうだろうねぇ、なんて返事をしながら、雪なんかに積もられたらめちゃめちゃ困るわ、降ってもいいけどせめて雨に変わってもらわないと、なんて夢のないことを思う。
子どもの頃、親を含めた大人全般が、自分たちと違って少しも雪を歓迎していなかったのが不思議だったけれど、今ならわかる。というか、おそらく全く同じ思考回路だ。
雪がふったら寒い、電車のダイヤが狂う、仕事に支障が出る、雪かきとかやらなきゃいけない仕事が増える。
雪なんて。
東京に雪なんて積もったっていいことなんか一つもない。
面倒なばかり。
あの頃、大人たちがなんで雪を楽しみにしていないのが不思議だったけれど、大方同じような理由だろう。
東京に積もる雪は、ただただ厄介だ。
私は東京の片隅の生まれである。いわゆる都下。東京に雪が降る日、都心に比べて3割増しくらいの雪が積もる、そんな東京の片隅の街。
庭があったので、雪が降り始めると比較的すぐに積もった。雪は、アスファルトよりも芝などの植物の生えた地面の方が早めにつもりだす。初めは地面に落ちるなり溶けていた雪が、白く、まばらに地面を染めだしたら一気に。
雪が積もり出すと、定規を持って外に行く。今3センチ、5センチと積雪を図る。雪が降った日は、飽きもせずそんなことばかりやっていた。
雪が降った朝。
雨戸からうっすら差し込む光がいつもより眩しい気がして目を細める。
昔から朝が弱い子だったけれど、差し込む光の白さに期待が高まる。
半分寝ぼけたまま、耳をすませる。
静かだな。とても静か。
雪が積もった朝は白くて明るくて静かだと、子供心に思っていた。
日中から降り出した雪が徐々に積もっていくのを見守るのも好きだった。
周囲の大人が、夕方が近づくにつれどこか慌ただしさを増していくのを感じながら、私は1人、どんどん積もればいいのにと思っていた。
車が出なくなるからと慌ただしく買い物に行く母親、父親はいつも不規則な帰宅時間でよく分からず、一人っ子のわたしは1人、定規を手に玄関のドアを開けたり閉めたりしていた。家事にいそしむ母親の気配を感じながら、家ではだいたい一人で過ごしていた私は、ちょくちょく庭に出ては積雪を測定し、ついでにいくつか雪に足跡をつける。
外に雪を見に行くたびに、つけたはずの足跡が薄れているのが楽しかった。もっと積もればいい、どんどん積もればいい。
おそらく、内心雪に焦っている母親の心境などわかるはずもない私は、ひとりそわそわと庭にで出る。
さく、さく、と今まさに振り積もろうとしている真新しい白い雪の表面に、無遠慮に足跡をつける。定規を刺して、もう何度目かの測定。
寒いから早く入りなさいという母親の声を何となく聞き流しながら、ふわふわと落ちる雪を見ていた。
専業主婦家庭に育った私は幼稚園児で、私の子どもたちに比べて格段に暇で、積もる雪をずっと観察する余裕にあふれていた。
小学校も中学校も歩いて通っていた。毎年雪が降ると大騒ぎする東京は、でも、毎年意外と雪が降る。東京よりも少し寒い都下の町で、年に数回、ざくざくと雪をかき分けながら登校したりしていた。
高校は自転車通学で、雪が降った日は自転車に乗れないので、やっぱりざくざくと雪を踏みしめながら登校した。当時付き合っていた人がいて、雪が降ると私もその人も部活が休みになって、寒いねとか言いながら余った時間を公園でつぶしたりした。
景色が白くて静かだった。お金があまりなくて、気の利いたカフェなんかもなくて、ホットミルクティのペットボトルを握りしめていた。本当に寒くて寒くて、寒かった。
大学の時は 西日本の街にいた。冬は寒いのに、雪はほとんど降らない場所で、たまに降るとあっという間にバスも電車も止まってしまった。東京以上に雪に脆弱な街だった。
いろんな地方から学生が集まる大学で、いろんな人がいた。
雪国育ちの子は、12月にパーカーだけでコートも着ずに原チャリを乗り回していてびっくりした。
ダウンコートにマフラーに手袋にと着ぶくれた私を見て笑っていた。雪が降り積もらない冬など冬ではないらしく、コートを着る意味が分からないといっていた。防寒の概念がカルチャーショックだった。日本は広いと、妙なところで感心した。
海が近い町で、ほとんど降らない雪がたまに降ると、海に消えていくのを見るのがなんとなく好きだった。
大学受験と成人式に、大雪に降られたのを覚えている。年に1度くらいの東京の大雪。そんな人生の一大事な日が雪に邪魔されても、まだ、邪魔されたという感覚すらなかった。
ただ、雪だ、と思った。
雪だ、白くてまぶしい。頑張って到着しなければ、と。
雪が積もると、面倒で仕方がない。ダイヤは乱れるし靴は汚れるしと、とにかく寒い。翌朝凍結するし、明日も早いし外回りだし、いいことなんて、ひとつもない。
子どもの頃と同じように、雪の朝は白くてまぶしくて静かで、何も変わってはいないはずなのに。
雪の朝が白くてまぶしくて静かだなんて確認した記憶も、もうしばらくない。
何センチ積もるかなぁなんて、願うこともない。
今日、雪つもるかなぁ、と長男が言う。
どうだろうねぇ、と答えながら。積もったら面倒だなと思いながら。
白く重く先の見えないような空から、今にも雪が降るような降らないような。
この子たちが、雪がふり積もるのを待ち焦がれるのはいつごろまでだろう、と思う。
白い空から白い雪が舞うのを見上げて目をしばたたかせて、新雪の表面がただただうれしくて倒れこんでみたりして。
無計画な雪だるまを作ろうとして頭が持ち上がらなかったり、なけなしの雪で汚れたかまくらを作ってみたりして。
雪遊びを卒業したころにはいっぱしの彼女なんかができたりなんかして、ホワイトクリスマスなんて言葉を覚えたりなんかして。
そしてきっと。いつかそのうち。
東京で雪なんて最低だ、と思う日が来るだろう。
雪を待ち焦がれた日々があったことなんてすっかり記憶の片隅で、ただただ、毎日は気ぜわしく。
雪の白さも明るさも匂いも、特別だと思うこともなくて。それはきっと、避けられないことだろうけれど。
「雪が降ったら何をしたいの」
「わかんない!でも雪で遊びたい!いつふるの?」
「どうだろう。東京は雪国ではないからね」
今年の冬は雪がたくさん降るだろうか。雪が降ったら寒くて面倒で憂鬱だ。本当に、東京に積もる雪などいいことなんて一つもない。できればやめてほしい。解け残れば凍結し、黒く汚れて路肩に寄せられる。何がいいんだか。全然わからない。
・・・なんてことは、本当はない
憶えているよ、本当は。雪が降ると、ほんとに嬉しかったこと。
何度も何度も庭に出て、積もった雪を図っていたこと。
私がそんな子供だったこと。
「ねえおかーさん。おかあさんは雪好き?」
「えー?どうだったかな」
「ねぇ、好き?」
「うーん、雪が降ると大変だから」
まだすべすべとしたきめの細かいほほをぷにぷにと触りながら思う。
東京の雪は面倒なだけだなんて、愚痴るのはもっともっとずっと先でいい。
長男が空を見上げている。白くて、妙に明るくて。今にもちらちらと落ちてきそうな。
今日は雪が降るだろうか。この冬初の、積雪になるだろうか。
明日も仕事だけどなぁ・・・
まだ空を見ている子供の手を引く。こんなに楽しみな雪なのに、母親はそう思っていないらしい、同意が得られないことに不満そうに、まだ、名残惜しそうに空を見上げている。
ごめんね。お母さんちょっと、意地悪だったね。
無邪気な、さらさらとした髪をなぜる。
今日雪が降って、明日雪が積もったらね、マフラー巻いて手袋をして暖かくして、雪道を散歩に出かけましょうね。